昭和12年(1937年)7月7日は、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が発生した日だ。
この事件を機に、日本は大東亜戦争を戦うことになってしまう。
盧溝橋事件が発生した当時の支那大陸は、中華民国という国だった。現在の中華人民共和国とは領土も違うし、支配している人達も違う。全く別の国だ。
中華民国は、国民党の一党独裁体制だったが、国内を十分に統治できていなかった。
各地に軍閥があり、争っている状態だった。
軍閥と言えば聞こえはいいが、実際には山賊に毛が生えたようなものだ。
日本共産党と同じで、コミンテルンの主導により結成した組織だ。
支那共産党は1949年、国民党を支那大陸から追い出し、中華人民共和国を建国する。
その後すぐに、ウイグルやチベット、南モンゴルなどを併合し、現在とほぼ同じ領土になる。
盧溝橋、出典:Wikipedia
昭和12年(1937年)7月7日深夜、日本軍(正確には「大日本陸軍の支那駐屯軍」)は、北京の南西の橋・盧溝橋事件付近で演習を行っていた。この演習は近くにいた国民党軍にすでに通知済みで、実弾を持たない「丸腰」の演習だった。
なお、日本軍は「北京議定書」により国際的に駐屯が認められていた軍隊だ。
午後10時40分頃、日本軍は不意に、何者かから銃撃を受ける。
日本軍はこれを国民党軍の仕業だと思ってしまう。
一方、国民党軍もほぼ同時刻に、何者かから銃撃を受ける。
国民党軍はこれを日本軍の仕業だと思ってしまう。
日本軍は実弾を持たずに演習をやっていたので、このような事ができる訳がない。
この事件を機に、両軍の間で武力衝突が発生し、両軍に死傷者がでる事態にまで発展してしまう。
この以上の戦火の拡大を抑えたい両軍は、停戦に向け動き出す。
その結果、7月11日に現地停戦協定(通称「松井-秦德純協定」)が成立し、戦闘は終息するはずだった。
日本本国では同11日、近衛文麿(このえ ふみまろ)首相は派兵を決定してしまう。
国民党も同11日、周恩来・蒋介石会議で抗日を決意してしまう。
19日には、蒋介石は 「最後の関頭」と言われる演説し、抗戦の覚悟を公式に明らかにする。
こうして、日本(日本軍)と中華民国(国民党軍)は、泥沼の戦いをすることになる。
昭和12年(1937年)7月7日、日本軍と国民党に対して銃撃をしたのは、支那共産党の可能性が高い。その理由をいつくか紹介しよう。
その1
支那共産党は盧溝橋事件発生の翌8日、全国に向けて「抗日」を呼びかける通電を流している。あまりにも手際が良過ぎる。事前に事件が起きるのを知っていたかのようだ。
その2
支那共産党の兵士向けのパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇(りゅう しょうき)同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきりと記述されている。
その3
昭和24年(1949年)10月1日「中華人民共和国」成立の日、周恩来(しゅう おんらい)首相は、「あの時(盧溝橋事件の時)、我々の軍隊(支那共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて銃弾を)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(支那共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言している。
このような理由から、 盧溝橋事件は支那共産党の策略により発生した可能性が高いと考えられている。
毎年7月7日が来る度に思う。
「日本は情報戦には弱いな」と。
これは米国やドイツにも言えることだ。
まぁ歴史的にみて、技術力のある国は情報戦には弱いものだが。