素人が新聞記事書いてみた

新聞記事を書いているつもりでブログを書いています。

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【皇紀】2678年12月10日

今日は、共産主義者同盟(通称「ブント」)が結成された日だ。

共産主義者同盟という名称は、弘化 こうか4年(1847年)、ロンドンで亡命したドイツ人を中心に結成された「共産主義者同盟」(ドイツ語: der Bund der Kommunisten)に由来する。略称の「ブント」(ドイツ語: Bund)は「同盟」を意味する。

 

昭和30年(1955年)、日本共産党は当初の暴力革命路線を放棄した。

日本共産党がその主張を変えていくことに、当時の共産党員のなかには反発する者もでてくる。その結果、日本共産党から多くの組織が生まれ、離合集散を繰り返していくことになる。

共産主義者同盟は、当初に日本共産党から分裂した代表的な組織である。

世界初の共産党からの独立した左翼と言われている。

 

共産主義者同盟などが結成される以前、日本に左翼と呼べる組織、日本共産党と旧日本社会党(現在の「社会民主党」)くらいしかなかった。

共産主義者同盟などの共産党、又は、日本社会党から分裂してできた組織を「新左翼」と呼ぶようになる。

これに対して、日本共産党と旧日本社会党は「既成左翼 きせいさよく」 と呼ばれるようになる。


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昭和33年(1958年)12月10日、共産主義者同盟 (一次ブント)は結成する。

「今日すべての共産主義党は平和共存と一国革命の絶対化、世界革命の放棄においてその本質は同一」とし、自分達以外の共産主義者を批判する。

日本共産党に対しては「代々木官僚による裏切り的性格」、革命的共産主義者同盟に対しては「革命的理論の欠如」と批判する。

また「既存の一切の党に信頼をおかず」、「一枚岩の団結の神話を捨て」、「組織の前に綱領」ではなく「実践の火の試練の中で真実の綱領を作りあげねばならぬ」などとした。

つまり、正しいのは自分達だけ。

 

一次ブントには勢いがあった。同盟員数は結成時点で約300人だったが、翌昭和34年(1959年)8月には約1,400人、昭和35年年の60年安保闘争時には約3,000人まで膨れあがった。

 

一次ブントは日米安全保障条約に大反対を表明する。俗に言う、60年安保闘争である。

昭和34年(1959年)8月、第三回大会では、「(60年安保闘争に)ブントのすべてをぶちこんで戦う」ことを決議する。

同年11月27日には、国民会議(総評・社会党など)の20,000人以上と全学連の約5,000人と統一行動をとり、国会内まで入り込み暴れる。国会の構内は10,000人のデモ隊と一次ブントらのメンバーにより埋め尽くされる。「11・27国会構内大抗議集会」である。

一次ブントはその後も闘争を繰り返すが、幕切れは呆気ないものだった。

 

昭和35年(1960年)7月29日、一次ブントは第5回大会を行う。

しかし、60年安保闘争評価をめぐり紛糾してしまう。

そして、戦旗派、プロレタリア通信派(プロ通派)、革命の通達派(革通派)などに分裂してしまう。

事実上の解体である。

 

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二次ブント分裂後の系統図、出典:Wikipedia

 

昭和41年(1966年)9月、第6回大会が開催される。「二次ブント」の結成である。

一次ブントの時と同様、結成直後、同盟員数は急激に膨れ上がる。

同年12月、明治大学記念講堂で大会には、のべ3,000人が集まったという。

 

二次ブントは、第一次羽田事件や東大安田講堂事件、新宿騒乱などの暴力事件を起こしてしまう。

そして、一次ブントの時と同様に「内ゲバ」が始めてしまう。

昭和44年(1969年)7月には、内ゲバにより、新左翼運動としては初の死者を出しまう。ここで分裂が決定的なものとなる。

 

昭和45年(1970年)6月、豊島公会堂で開かれた集会で、叛旗派・情況派・戦旗派が公然が激しく対立する。

その数日後、叛旗派と情況派が代々木公園の集会場でぶつかり合う。

二次ブントはこうして自然消滅してしまう。

 

この二次ブントから分裂した組織には、共産主義者同盟赤軍派(通称「赤軍派」)や日本赤軍連合赤軍などがある。

 

彼らのなかには、日本や社会を良くしたいと思い参加した者も多かったことだろう。

しかし、なぜこのようになってしまったのだろうか?

理由はいくつか考えられるが、思い込みが強過ぎたと思う。そのため、自分と違う考えも理解しようとする包容力に欠けていた。

あと、確実に言えることは、暴力はよくない。

 

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