昭和天皇三十年式年祭が7日、
1月7日は「昭和天皇祭」である。「先帝祭」とも言う。先帝祭は大東亜戦争終結以前、国民の祝祭日(祭日)だった。
式年祭とは、決められた期間ごとに行われる祭祀のことである。宮中祭祀における式年は、3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとと規定されている。
昭和天皇が
平成30年(2019年)1月7日は「昭和天皇三十年式年祭」である。
天皇皇后両陛下や秋篠宮同妃両殿下をはじめとする皇族方がご拝礼なされた。元皇族や安倍総理ら約80人も参列した。
天皇陛下は墳丘前の祭壇に玉串をお捧げになりご拝礼になられ、「
続いて皇后陛下もご拝礼になられた。
午後には一般の参拝も行われた。
天皇皇后両陛下の名代として皇太子同妃両殿下が歴代の天皇らを祭る皇霊殿にご拝礼なされた。
ご療養中の皇太子妃雅子殿下が宮中祭祀に臨んだのは、平成28年4月の神武天皇二千六百年式年祭以来約3年ぶりとなった。
午後には昭和天皇三十年式年祭「
御成婚直後の昭和天皇(当時は皇太子)と良子妃、大正14年、出典:Wikipedia
昭和天皇にはこのような有名な話がある。
昭和20年(1945年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾。
翌15日、「大東亜戦争終結ノ詔書」が国民に告げられる。(玉音放送)
同月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に着陸する。
9月27日、昭和天皇はマッカーサーに会うため、通訳一人だけを連れ米国大使館公邸をご訪問なされる。暗殺の恐れもある中。
初対面の時、マッカーサーはパイプを口にくわえ、椅子に座って背もたれに体を預け、足を組み、あからさまに昭和天皇を見下していた。
マッカーサーは第一大戦直後、父と共に、敗戦国ドイツのカイゼル皇帝の元を訪れた時の事を思い出していのだ。カイゼル皇帝は「戦争は国民が勝手にやったこと」と言い、命乞いを申し出た。マッカーサーは昭和天皇も命乞いをすると予想していた。
そして、自らの進退について以下のように仰せられた。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」
「しかしながら、罪なき8000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに、
マッカーサーは驚愕した。自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした君主など、世界の歴史上ほとんどいなかったからだ。
咥えていたパイプを机に置き、椅子から立ち上がった。そして、昭和天皇の前に立ち、直立不動の姿勢をとった。
会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度はすっかり変わっていた。わさわざ予定を変え、自ら昭和天皇を玄関まで送った。
『マッカーサー回想記』には以下のようにある。
「私は大きい感動にゆすぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした」
同年11月、米国政府はマッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請した。
しかし、マッカーサーは「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答した。
その後、昭和天皇はマッカーサーと個人的な信頼関係をお築きになられていく。
合計11回に渡って会談をなされる。
当時の日本は深刻な食糧不足に悩まされていた。
マッカーサーは米国本国に何度も掛け合い、大量の食糧物資を支援させることに成功した。
この時、米国から日本に大量の食糧物資が届かなければ、多数の餓死者がでていた。
多くの日本人に知ってもらいたい話である。