素人が新聞記事書いてみた

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【皇紀】2679年4月21日

今日はロンドン海軍軍縮条約が調印された日だ。

 

大正7年(1918年)に第一次世界大戦終結して以降、世界は軍縮の方向に向かっていく。日本は2つの軍縮条約を締結する。

ワシントン海軍軍縮条約大正11年/1922年)

ロンドン海軍軍縮条約昭和5年/1930年)

この2つの条約は非常に関係性が深い。

 

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ロンドン軍縮会議の米国代表団、出典:Wikipedia

 

大正10年(1921年)11月12日~大正11年(1922年)2月6日にかけ、ワシントン会議が行われる。米国が主催した初の国際会議であり、史上初の軍縮会議である。日本・米国・英国・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加。

大正10年(1921年)12月13日、四カ国条約が日本・米国・英国・フランスにより署名される。太平洋の島嶼とうしょに対する権利の相互尊重と紛争の処理方法がその内容。この条約の発効とともに、日英同盟は消滅してしまった。これは日本にとって非常に痛かった。

大正11年(1922年)2月6日、ワシントン海軍軍縮条約が、日本・米国・英国・フランス・イタリアにより署名される。

ワシントン海軍軍縮条約」の主な内容

・主力艦保有比率を概ね、米・英5、日3、仏・伊1.67

・以後10年間の主力艦建造停止

 

ワシントン会議は、日本にとって良いものではなかった。世界最強の英国との同盟は解消され、主力艦(戦艦・空母)の保有も制限されてしまった。

米国は国内事情により軍拡が難しくなっていた。そのため、この会議で将来の敵になるであろう日本の弱体化を狙っていた。

 

この条約を契機に、大日本帝国海軍は、最大の仮想敵国をロシアから米国に変える。

また、主力艦の保有が制限されてしまったため、制約がなかった補助艦(巡洋艦駆逐艦・潜水艦)を重点に強化するようになる。

しかし・・・

 

昭和5年(1930年)1月21日~4月22日にかけ、ロンドン軍縮会議が行われる。英国の主催により、日本・米国・フランス・イタリアの計5カ国が参加。

昭和5年(1930年)4月22日 、ロンドン海軍軍縮条約が、日本・米国・英国により署名される。フランス・イタリアは署名しなかった。

ロンドン海軍軍縮条約」の主な内容

・補助艦保有比率を概ね、米10、英10、日7

ワシントン海軍軍縮条約の延長

 

ロンドン軍縮会議も、日本にとって良いものではなかった。いや、最悪のものとなった。

 

大日本帝国海軍は、ワシントン海軍軍縮条約で主力艦が制限されたため、太平洋を横断してくる米国艦隊を潜水艦、航空機、水雷戦隊の夜戦で漸減するという、補助艦などを活用した対米作戦構想を立てていた。

しかし、ロンドン海軍軍縮条約で補助艦にまで大幅な軍備削減が求められたため、その作戦構想も成立しなくなる恐れがあった。

 

ワシントン海軍軍縮条約に対しては、海軍内でも意見がわかれ、海軍省は賛成、軍令部は反対の立場をとっていた。

そして、この条約により、「統帥権干渉問題」という後世に禍根を残す問題が発生してしまう。

 

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浜口雄幸はまぐち おさち総理(左)と鳩山一郎(右)、作成:素人が新聞記事書いてみた

 

統帥権干渉問題とは、ロンドン海軍軍縮条約を巡る政争である。

浜口雄幸内閣に対して、統帥権の独立を犯すものだとして、野党「政友会」の犬養毅鳩山一郎鳩山由紀夫の祖父)が騒ぎ出した。政友会は民政党を攻撃する材料を探していた。これに右翼やマスコミ、軍令部などものっかり、政府を攻撃した。

浜口雄幸総理は右翼の青年にピストルで撃たれ、これが原因で亡くなってしまう。

 

このような政治に国民は幻滅、政党政治は衰退していく。国民は政治家よりも、軍人を支持するようになっていく。

犬養剛は、統帥権干渉問題を利用し政権を奪取、内閣総理大臣となる。しかし、昭和7年(1932年)5月15日、武装した海軍の青年将校たちに暗殺されてしまう。

昭和11年(1936年)5月には軍部大臣現役武官制が復活する。軍部大臣(陸軍大臣海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度である。『超』縦割り行政である。文民統制(政治家が軍隊を統制すること)が効かなくなる危険もある。

 

ロンドン海軍軍縮条約を締結しなければ、大東亜戦争は避けられたかもしれない。

 

 

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