今日は、昭和天皇(以下「陛下」)とダグラス・マッカーサー元帥が初めて会見した日だ。
昭和20年(1945年)8月14日、日本はポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告。
翌15日、玉音放送により、日本の降伏が国民に公表される。
30日、ダグラス・マッカーサーが厚木に到着する。彼は日本の占領政策を実施した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のトップである。
9月2日、日本がポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印。以後、政策立案はGHQが行なうこととなる。GHQは、日本軍及び政府関係者40人の逮捕令状を直ちに出す。
9月27日、陛下はGHQ総司令官のマッカーサーが居住していた駐日米国大使館を訪問し、初めての会見を行う。米国議会では、陛下を戦犯として裁く決議案が提出されていた。
午前10時、陛下を乗せた車が米国大使館公邸の門を潜る。この会見には陛下ご自身の命、そして日本人の運命がかかっていた。
出迎えたのはマッカーサーではなく、2人の副官だった。
マッカーサーはレセプションルームで陛下を出迎えた。そして、会見が始まる前に撮影されたのが、教科書にも載っている下の有名な写真だ。
マッカーサーとの会談が始まった。陛下は以下のように述べた。
敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。
引用:侍従長の回想(著者:藤田尚徳)
マッカーサーは驚いたという。陛下が命乞いに来たと思っていたからだ。それが自らの命と引き換えに国民を救ってくれと言ったのだから。
これを機に、マッカーサーの態度は一変した。
会見は15分の予定だったが、35分ほどに及んだ。陛下が帰るときには、予定を変更して陛下を玄関まで出て見送った。
この年の11月、米国政府はマッカーサーに対し、陛下の戦争責任を調査するよう要請した。しかし、マッカーサーは「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答した。
そればかりか、当時深刻な食糧不足に悩まされていた日本に対し、支援を行うよう米本国に要請している。これにより、日本は食料支援を受けることができた。この時の支援がなかったら、凄まじい数の餓死者がでていた。
マッカーサーが解任されたのは、この食料支援が原因だとも言われている。
陛下の覚悟が日本の運命を変えた。