今日は、米軍により東京大虐殺が行なわれた日だ。一般的には「東京大空襲」と呼ばれている。
鎮火後の東京の風景、
日本と米国は、昭和16(1941)年12月8日から昭和20(1945)年9月2日まで戦争状態だった(終戦日については複数の見解あり)。
この間、米軍は東京へ100回を超える空襲を行い、多くの民間人を虐殺した。
当時はまだジェット機やミサイルはなかった。このため、空中から目標に対して爆弾の投下や機銃掃射などを行う「空襲」により東京は攻撃された。
米軍が東京に行った空爆のなかで最も大規模かつ被害の大きかったのが、昭和20年3月10日未明の空襲である。いわゆる「東京大空襲」である。
当時の警視庁の調査による被害報告
・死亡:83,793人
・負傷者:40,918人
・被災者:1,008,005人
・被災家屋:268,358戸情報元:東京都戦災誌
人的被害の実数はこれよりも多いと言われている。他に、行方不明者は数万人規模で存在。更に、多くの震災孤児を発生させた。
東京大虐殺で使用された爆撃機「B-29」、出典:Wikipedija
昭和20年3月10日午前0時7分、325機の爆撃機「B-29」により、東京に爆撃が開始された。
まず279機が江東区、墨田区、台東区、中央区、城東区へ焼夷弾を投下。これを皮切りに、残りの爆撃機も含め東京各所が爆撃された。
東京大虐殺で使用された焼夷弾は、38万1300発、1,665トンにも上った。
東京大虐殺の犠牲の遺体、石川
東京大虐殺で使用された爆弾は、発火性の薬剤が入っている「焼夷弾」がほとんどだった。
爆風や飛散する破片で対象物を破壊する通常の爆弾と違い、火災を発生させることを主目的としたものであった。
当時の東京は木造建築が多かった。更に、当夜の強い季節風(空っ風)により、火災は拡大した。
一夜にして、東京市街地の東半部、約41平方キロメートルが焼失した。
火災から逃れるため、多くの人が川に飛び込んだ。しかし、川の水面は焼夷弾の油が引火したことにより、さながら「燃える川」と化した。水中に逃れた人も、低温のために凍死する人が多数いた。
早朝の川には多くの遺体が浮かんでいた。
菊川橋付近(墨田区)での遺体引上の様子、石川
米国は日本との戦争の際、日本人の民間人を多数虐殺した。民間人虐殺は、戦争中であっても国際法違反である。
米国は自分勝手な国である。
現在、日米関係は良好だが、この事実を忘れてはいけない。