素人が新聞記事書いてみた

新聞記事のつもりでブログを書いています。

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【皇紀】2680年8月9日

75年前の今日は、長崎に原子爆弾が投下された日です。

当初、この原子爆弾は長崎に落とされる予定ではありませんでした。

 

犠牲となられた多くの方々の御霊に対して、謹んで、哀悼の誠を捧げます。

そして、今なお被爆の後遺症で苦しんでおられる方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 

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原爆により破壊された浦上天主堂、爆心地から500~600m地点、出典:Wikipedia

 

昭和20年8月9日午前11時2分、米軍のB29爆撃機から、一発の原子爆弾が投下された。

その原子爆弾は、長崎市松山町171番地の上空約500mで爆発した。

 

爆発した瞬間、爆発点の温度は摂氏数100万度に達し、爆発からの1万分の1秒後には約30万度の火球が形成されたと推定される。

火球は爆発1秒後には最大となり、半径約240mまで膨張。この時、爆心地真下の地表の温度は、摂氏3,000~4,000度にまで達したと推定される。

 

爆発に伴い強力な気圧変化も発生。凄まじい衝撃波となり周囲に広がり、大きな被害をもたらした。

最大風速は、爆心地で440m/s(音速よりも早い)、500m地点で280m/s、1km地点で160m/s、1.5km地点で94m/sと推定される。

 

爆心地より1km以内では、ほとんどの人が即死した。

木造建築はほぼ全て焼失又は全壊。コンクリートや鉄筋造りの建物には、全壊を免れたものもあった。

 

長崎市原爆資料保存委員会が、昭和25年7月に発表した被害状況は以下のとおり。

死者  :73,884人
重軽傷者:74,909人
罹災戸数:18,409戸(市内総戸数の約36%)
全焼  :11,574戸(市内の約3分の1)
全壊  :  1,326戸 
半壊  :  5,509戸(全焼・全壊を除く)

補足:他に身元が判明しない死体が約2,000体

 

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原爆投下約15分後、爆心地から約10km離れた「香焼島」で撮影された写真、松田弘道撮影、出典:Wikipedia

 

長崎市に投下された原子爆弾は、小倉市(現在の北九州市)に投下される予定だった。

原爆を搭載したB29爆撃機は、小倉市上空の投下ポイントまで到着した。しかし、視界不良のため、なかなか原爆を投下をすることができなかった。3度試みたがすべて失敗してしまう。この間、約45分。

原爆投下をもたついている間に、日本軍の高射砲による対空攻撃が激しくなる。

更に、日本軍の戦闘機が緊急発進(スクランブル)したため、B29爆撃機小倉市上空を離脱した。

その帰り道、長崎市に原爆を投下した。

 

米軍の報告書によると、当日の小倉市上空には『煙』があったと書かれている。

この煙の正体は今だに不明だが、2つの説が考えられる。

一つは、米軍が前日に行った八幡市空襲(距離約7km)の残煙。

もう一つは、八幡製鉄所の職員がコールタールを燃やして張った煙幕。

 

八幡製鉄所の職員は当日、B29爆撃機小倉市に近づくと、その視界を遮るためコールタールを燃やしていた。

これが小倉市(現在の北九州市)に原爆が落とされなかった原因か否かは、わからない。

どちらにしろ、日本軍の戦闘機が緊急発進したら、米軍のB29爆撃機は逃げていった。

 

この時の小倉市では、原爆投下に対して、抑止力が効いていた。

一方、長崎市は...

 

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八幡製鉄所の職員がコールタールを燃やしたことを伝える新聞記事、出典:Twitter

 

歴代の長崎市長広島市長は、「核兵器のない世界をつくろう」と言っている。

 

保有国が、どうすれば核兵器を放棄するのか?

この具体策を示さずに、核は怖いという感情論だけでは、政治家として余りに無責任だ。

そもそも、現在の日本は支那やロシア、北朝鮮からの核の脅威に対して、米国の核により抑止力を得ている。

核兵器を無くせと言いながら、核兵器により守られているという矛盾。

 

長崎への原子爆弾投下により、多くの尊い命が奪われた。

この犠牲者の方々が望んでいるのは、「二度とこのような悲劇を起こさないこと」だと筆者は思う。

そのためには抑止力が必要である。

核兵器を無くせ!」と感情的に言っているだけでは、抑止力を得ることはできない。

 

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