今日は、支那共産党が指導する人民解放軍が中央チベットへ侵攻した日だ。昭和25年(1950年)10月7日の出来事である。
その後、チベットは占領され、中華人民共和国の一部となってしまった。チベット人への人権侵害は現在も続いている。
チベットとは、ユーラシア大陸中央部の地域を指す呼称である。チベット高原とぼぼ同じ領域で、東経77-105度、北緯27-40度。
南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈(こんろんさんみゃく)、東は邛崍山脈(きょうらいさんみゃく)に囲まれている。
この地域に成立した国家や政府、民族、言語などに対しても使用される。
チベット侵攻は2段階に分けらえる。
一つは、昭和23年(1948年)から翌24年、チベットの東北部・東部に対しての侵攻。
もう一つは、昭和25年(1950年)から翌26年、中央チベットに対しての侵攻。
一般的には「チベット侵攻」と言った場合、中央チベットに対しての侵攻を指す。この地域はガンデンポタンの勢力圏だった。
ガンデンポタンとは、ダライ・ラマを長とする中央チベット政府のことである。本来の首都はラサ。現在は亡命政府で、インド北西部のダラムサラを根拠地としている。
昭和24年(1949年)10月1日、支那国民党との内戦に勝利した支那共産党が、中華人民共和国を建国する。
そして直ぐに、中央チベット(ガンデンポタン勢力圏)編入に着手する。
昭和25年(1950年)10月7日、人民解放軍は東チベットの州都・チャムドに3方から同時に進軍した。兵力は2~4万人。
これに対し、ガンデンポタン側は国軍と義勇兵を合わせて約8,000人。
チャムドは2日で陥落。州知事アポ・アワン・ジクメーは捕らえられた。
ガンデンポタン側は半数を超える 4,000人超が命を落とした。
11月7日、ガンデンポタンは連合国(国連)に対して中華人民共和国による侵略を訴えた。
しかし、連合国は朝鮮戦争への対応で手一杯であったため、介入する余裕は無かった。
昭和26年(1951年)5月23日、「十七か条協定」げ締結された。チベット全域は事実上、中華人民共和国の統治下となった。
ガンデンポタンによると、チベット侵攻に伴うチベット人犠牲者数は、昭和51年(1976年)までで合計120万7387人だという。
この数は全チベットにおける数で、餓死者342,970人と、自殺9,002人が含まれる。
日本には人権にウルサイ連中がいる。
彼らは、なぜ、チベットの人権弾圧を指摘しないのだろうか...