今日は大隈重信遭難事件が起きた日だ。
明治22年(1889年)10月18日、玄洋社の来島恒喜(くるしま つねき)が、外務大臣・大隈重信に爆弾を投げつけた。
大隈は右足を失う重傷を負った。
来島はその場で自害した。
来島が大熊を暗殺しようとした理由は、大隈が進めようとしていた条約改正(外国人司法官任用など)に対する抗議のためだった。
大隈重信は政治家、教育者。肥前国(現:佐賀県佐賀市)出身。天保9年(1838年)生まれ、大正11年(1922年)没。
東京専門学校(現:早稲田大学)創設し、初代総長を勤めた。
当時の日本にとって最大の政治課題は、幕末に西洋列強国と結んだ不平等条約の改正だった。特に、領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復。
領事裁判権とは、外人が日本で犯罪を犯しても、日本の法律ではなくその外人の出身国の法律で裁かれること。
関税自主権とは、国家が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利。
明治21年(1888年)2月1日、大隈重信は外務大臣に就任。そして、不平等条約の改正に着手した。
大隈が作成した改正案は、外国人司法官(裁判官・判事+検察官・検事)の任用や、外国人の土地所有権など、相変わらず不平等な内容が残されていた。
大隈は段階的改正が現実的と考え、このような妥協案を西洋列強国に提示していた。
国民は、大隈の改正案は平等なものだと信じていた。
条約改正交渉の途中、英国の新聞がこれを報道。日本の一般国民も知ることとなった。
大隈への批判は高まった。
この報道を並々ならぬ想いで受け止めた一人の青年がいた。日本初の右翼団体とされる玄洋社の来島恒喜である。来島は外務大臣・大隈重信の暗殺を決意した。
明治22年(1889年)10月18日、大隈が閣議を終え、馬車に乗り官邸に戻ろうとした時だった。
来島が現れ、馬車に爆弾を投げ込んだ。直撃こそしなかったが、大隈は爆風により右足に大けがをした。
来島はその場で、持っていた短刀で喉をつき自害した。
大隈は一命はとりとめたが、爆弾の破片が突き刺さった右足は、大腿部下部三分の一のところから切断を余儀なくされた。
大隈は切断した右足をホルマリン漬けにし、自宅に保管した。
事件により、条約交渉は中止となった。
大隈も外務大臣の職を退くこととなった。
大隈は、自分の足を奪った来島を称賛していたという。
来島の命日には、墓参りをかかさなかった。
来島恒喜(くるしま つねき)
ここからは筆者の主観である。
一般的に「保守」といわれている人たちは、大きく2つのタイプに分類されると思う。
来島のことを国士だと思うのは「人治主義者」である。法律より感情を優先する。
どんな理由であれ犯罪者であるのは事実だ。そう考えるのは「法治主義者」である。
この2つは共に保守ではあるが、全くの別物である。
これに右か左を加え、政治思想は4つに大別されると考える。
左から「人治主義・革新」「法治主義・革新」「法治主義・保守」「人治主義・保守」である。
例えば、「人治主義・保守」が革新になる場合は「人治主義・革新」となる。その逆も同様である。
筆者は「法治主義・保守」だから、来島の行動を称賛することはできない。
別の方法で日本のために尽くすべきだったと思う。一生懸命に働くことも、国に尽くすことになる。